12/31/2014

私的 wagplaty history 10

'97の春頃にはBASEを立ち上げようとしていたTCO兄の
粋な計らいで
アメリカでのライヴの話が来た
この時期も面白い誘いが増えている
だからやっかみで影で無い事ばかりを
吹いて廻られる様にもなった
誰かは判っている

バークレーのギルマンストリート
サンフランシスコのカメレオン
の二日間
憧れの土地でライヴが殺れるのは
バンドマン冥利に尽きる

それに合わせて
今で言うCDRのシングルを造った
今度は知り合いのツテで
CDRを焼くマシンを借りられた

レコーディングは西荻リンキーディンクstの地下の
一番でかいstに機材を持ち込み
4trのカセットレコーディング

この時期から
トラック数の多いレコーディングを理解するには
4trから把握しなきゃ進めないと想っていたので
丁度Eタイミングだった

4曲録って
少ないトラック数を埋めるべく
トラックダウンしながら
音をリアルタイムで足したり
色々アイディアをつぎ込んだ

ここから二年くらいは確か4trで
録ったはず
その経験と概念が今に役立っている

目的があって
其処に向かう為に
色んな作業をする
その経験がまた
バンドサウンドを固めていく

その事を凄く意識し始めた

話は少し前後するが
この二、三年くらい前から
狂都のバンドとの繋がりが密接になっていく
きっかけはN兄

バンドに対しての偏愛ぶりを
廻りに引かれていた自身は
狂都の人間達と出会って
これで良かったんだと確信する

其処には当たり前の様に
バンドに対しての偏愛家が
沢山居たからだ

身を削って笑いに変える術も
この人間達を観て育った

色んな考え方が
音に対しての解釈を変えていく
起こした行動が
それを現実にして結果が少なからず自信になるし
問題点も(目的)も浮き彫りにする

少しづつ現実と問題点のギャップを
埋めなければと必死だった
しかし バンド内の温度差は
ますます ひらいていく事になる rk2


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06/20/2014

私的 wagplaty history9

バンドを続けていく以上
常に考え方は進行形でなければいけない
というか意味が無い
特に このバンドでは

常に意見が出なきゃ
おかしいはずだが
メンバーよりも
ヘルプのコニ兄の方がよっぽど
意見を言ってくれていた常態だった

gtがMになって
曲も持ってきてバンドに幅も出
少しマシにはなったが
溝が深まる部分が増えていく

完成形は何時も自分の頭には無い
とりあえずの原型だけが在る
完成形はメンバーで造らなければならないが
どうも噛み合わない

増えるライヴとアイディア
割り切って進めるが
結果 言われのない中傷と
勝手な先入観を吹いて回られる

自身の考えの正しさは今になって
少しは具現化出来たと想っている

ツアーの道中
コニ兄のカセットで聴いたw
日本のあらゆるロックバンドのカセット
此処が特に其の先に繋がるきっかけと成った

色々日本のバンドを聴いていくうちに
共通項が見つかる
自身の音楽が好きになるきっかけの
RC SUCCESSIONを其の時の感覚で
聴きなおすEタイミングだった
そして初心に戻ろうと
YMOや矢野顕子を
もう一度解析しようとした
其の事はとても大事だったし
次第に意識が変わっていった
自分等に必要な事も見えてきたが
結果 だましだましでしか進められなかった

勿論 自身の考えの甘さも在るが
決定的にバンドサウンドに対する
温度差がメンバー間で激しかった

ジレンマとそれでも進めた分の出る結果
バランスは悪かったが必死で進めた

そしてMからgtはAにチェンジ
其の間にコニ兄のヘルプも終わった
色々学ばせてもらって感謝している
勿論ヘルプが何時までも続くわけでもないし
溝が少し出来てしまったのも
正直な所だったから
丁度良かったのかもしれない
あの時に動けた事に
今でも深い感謝をしている

実はこの間に
色んな取り巻く状況があって
異国の地でWPをやろうかなと
考えた時期でもあった
自分の考えを具体的に確認したかったのだ

永住権の取り方
生活の収入源
そこに関わってくれた人間達は
ウエルカムな状態だったし
結構 具体的な話までいった
gtがAに決まらなかったら
他国に行っていたかもしれない
それほど悪い意味で煮詰まっていた

そしてdrはHに決まり
結果 そのままバンドは継続していく rk2


 

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01/12/2014

私的 wagplaty history8

音源を出した後の反応は嬉しかった

自身は好きでも嫌いでも興味を持ってくれればE
それはずっと変わらない

そして時には好意的に想ってくれた人間の
聴き方の深さに感激したりもした
少数ながら的確に想いが届いて
出して良かったと改めて想った

gtがYからMにチェンジし
週末に連続のツアーもやって
地方の色んなバンドにお世話になり
見える景色が変わってくる

1stEPのアウトテイクと
ライヴの音源を加工し
四曲入りの今で言うCDRを造って
(CDRなんて言葉も無かった)
持って行った

このバンドではデモテープは造っていない
理由は音質の如実な劣化
折角凝ってレコーディングしたのが
度重なるダビングで不本意に劣化していくのが嫌だったからだ

そしてプロコピーカセットを今みたく
安く少ロットで引き受けてくれる業者を知らなかったし
多分無かったんじゃないかな

デモテープは劣化も含むで味だったりするが
このバンド向きではないと想っている
今はプロコピーのカセットは出したいと想っているけど 笑

実質そのCDRがセカンドに当る
多分50枚位しか造れなかった

理由は原価が高すぎたから

当時カラオケボックスには
唄った音をその場で焼いてくれるサービスがあって
カラオケボックスに交渉しようとした所
知っている某所のスタジオで
同じ機械が置いてあって
スタジオの店員に相談し
長時間の使用の許可を貰った

長時間使うし
一枚CDRが1000円した
それで少数の製作になる
ケースとジャケのコピー代もかかっていて
それでも1000円で売ったから
一枚売れても赤字 笑

それでも儲けよりも
音源の品質、内容、ツアー用のリリースに、こだわりたかった
だから二日間で約350分(」約7分×50枚)も
我慢できた
当時は全部当倍でしか焼けなかったから
約二日間朝から晩までスタジオでCDRを焼いていた

もう一つ言えば実際約350分+約175分だった
何故なら最初にマスターを造る時に
焼き損じが発生していて
約25枚分エラー品が存在する(微々たるノイズだったけど)
それはスタジオの好意でオマケして貰った

だから実際は50枚+25枚のエラー盤が存在する
(エラー盤はあげたりした)

そんなこんで
ジャケもまたサークルデリックの南雲さんに
協力してもらい
編集、マスタリングは1st時と同じ
専門学校の同級生Tにお願いし
協力してもらった

ライヴ音源には効果音が後ろに入っている
それもスタジオで即興で録った

バンドをスタートした時に
やりたかった事を
着実にかなえていった

が それはそれで見える景色が変わった分
視点も目標も変化していく

もっともっと面白い事がバンドサウンドで
出来るのではないか?
しかし それは一方では深い溝になっていく
原因でもあった  rk2


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12/01/2013

私的 wagplaty history7

レコーディングも無事終え
トラックダウンも軽いマスタリングも済ませ
後はアートワークを残すのみになった

当時高円寺に会ったレコ屋サークルデリックの
南雲さん(当時ペインジャークでもあった)が
協力してくれた

モノクロの二つ折りのジャケ
自身が書いた稚拙な絵を
PCで巧く加工してくれて
それを絵に見立て
枠ににはめたジャケにした

裏ジャケの写真は
ここのリンクにもある
アパレルブランドaudienceの社長Oのもの

自身のこだわりで
日本の自主盤は三曲入りの45rpmってのがあってその仕様に
ちょっと凝って緑のカラー盤(少し音質は落ちるらしいが)
ラベルも南雲さんがうちのイメージで造ってくれた
メンバがヘルプでレコーディングしたので
メン募のフライヤも入れて
dollに広告もうった

プレスにまわし
確か二ヶ月位で仕上がったはず(確か)

待ち遠しかった
初の音源でアナログ7インチ
届いた時は感無量だった

BOYとサークルデリックに卸した
ディストロなんて言葉も知らなかった 笑
ライヴの手売りで何年かかってでも
のんびり売ればEと想った
が 嬉しいことに
仕事から帰ると
一週間毎日の様に
色んなレコ屋から
卸して欲しいとの留守電が入っていた

その度にボーンアゲインストみたいだと言われた 笑

dollのboyのシングル売り上げベスト一位がリベレイトの1st
二位がうちらで凄く嬉しかった
当時クロさんと同じ職場だったので
笑いあったのを覚えている

そのきっかけでboyの私的ベスト10も
書かせて貰ったのも嬉しかった

音源を出すと
状況が少し変わった
興味を持ってくれる人が増えた
ライヴの本数も

とあるファンジンで
アナログに対しての愛情が感じられる
嬉しい一枚との評も嬉しかった
其処が肝だったから

そしてこの時期に家に一通の封書が届いた
当時某Vの店員だったTCO兄からだった
自分のやっているファンジンにも
良かったらただで広告が出せますよとの旨で
某Vに会いに行った
その少し前にも当時のBaのTの友人だと言う事で
南君にも会っている
そうBASEに繋がる付き合いも
この辺りから始まっていった

アクションを起こせばリアクションが必ずある
それを実感し始めていた  rk2


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10/13/2013

私的 wagplaty history6

1stEPレコーディング当日

場所は都内某所
同級生のツテを伝って
研修という名目で
一日 某有名人所有のスタジオを抑えてもらった

Eガヤ兄のDrセットを下ろし
機材関係を下し
一息ついてセッティング

多少ハマッたが
最初にしてはまだスムーズにいった方だ
スタジオに置いてある機材を
想いつきで使ったりもし
五曲
晩までには録り終えていた

やはりやってみて判ることの方が多過ぎる
狙った訳ではないのに
結果オーライも多かった

エンジニアは同級生にお願いしたので
比較的我侭もきいた
というか 記号の様な自身のお願いに
懸命に答えてくれた

48chのデジタルレコーダー
音はクリアな感じで
前に音が出てくるイメージ

スピーカーのすぐ中で
音が浮き出すイメージ

リヴァーヴ感を抜いた
NMNのWRONGの音の感じ
ローザルクセンブルグのセカンドアルバムの
乾いた音の感じ

今聴くと どこが? だが 笑
あの日の懸命さは出せた
っていうか言ったらキリが無かったから
ハマる前に切り上げた

VOは特に時間はかけなかった

昼飯は近所の弁当屋で
夜は皆で飯屋に繰り出して
比較的和やかに終えた記憶が在る

Eガヤ兄は流石で
殆どハマらずだった

スタジオの都合で
二週間あけて
自身の母校の別館スタジオにて
(卒業してから出来たらしい)
トラックダウンとマスタリング

自身も考えが甘かった為
全体を混ぜた時と
持っていたイメージが重ならず
少しハマる

途中切り替え
別物と考え
音がスピーカーから出るイメージだけを残し 笑
何とか夜半前に
軽いマスタリングまで到達

この二日間で学んだ事が大きい

そしていきなり48とかではなく
まずは4トラックから
考え直さねばと
この後のレコーディングへの概念と繋がっていく

卓で音を操作するのではなく
バンド側のチューニングこそが大事だと
それはバンド内部の意識が重要になってくる

要はレコーディング以前の問題
音への根本的な取り組み方

そしてCDRも出始めで
まだ今の様に安値ではなく
一枚五千円もした

無駄なく効率よく
金は抑えて
という貧乏バンドマンには
何が必要なのか
非常に実の多いレコーディングだった
個人的には

本位じゃない部分も含め
収穫の大きい
意味の在る二日間だったのは間違いない

そしてとりあえず出来た音源の次は
ジャケットの行程だ

それはまた次回に rk2


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09/25/2013

私的 wagplaty history5

嬉しいもので小島の兄貴やYMST君やメンバの森や
個人的なメールでMNB君からレスがあると
書いた甲斐があるってもので
非常に嬉しいです
これからもこの荒地を愛してね 笑

レコーディングの日の話の前に
補足的にYMST君のリクエストに答えて
1stEPの背景について

自身の考えとしては
原曲は造ってくるけど
あくまでも原曲の原曲
ガイドであって
実はそのまま演って欲しくなかったりする
個人的には今まで散々話して来た事なのだが
残して欲しい所は伝えるけど
基本自分のお題をどう解釈するか?
って所に答えて膨らませるから
曲に血が通うとずっと想っている

当時のメンバは
そのまましかやれなかった
膨らませる発想が無かったのだろう
そのくせ辞めると自身にやらされたとまで吹いて歩かれた

もう一つ言えば
絶対こうしないでくれって言った事まで
レコーディング当日に平気でやられ
辟易とした

だから
ある程度までは指示するしかなかった
曲が何時まで経っても出来ないからだ
此れが自身が全部言うとおりにやらせたと
吹いて歩かれた真相だ

ここんとこのメンバやメンバだった人間ならなら判ると想うが
メンバがいじってきたものに
イメージを足すことは在るけど
基本 それで良しとしている

メンバで構築していきたいのは
昔からなのだ
出来る人が少なかった
自身が指示していたのは
現状として仕方なかっただけ

そしてリリース後に散々言われたのは
born against好きなんですか?だ

ハッキリ言って
それまで聴いたことも無かった 笑
90年代以降のHCは日本のばかり聴いていたから

細かく言えば
他の90’sの海外のバンドも
少しは聴いた
けどピンとこなかった

しいて言えば
この時期買った海外のバンドは
mohinder
オスモスコス
1.6band
rice
left insane
my name
drawsow
plaid retina
等で正直のめり込まなかった
むしろ今の感覚で
もう一度90年代はおさらいしている位
当時はそんなに通っていない
かっちょEかったのは
black fork
deface
dickless
かな
書き忘れも多数あるだろうけど 笑

born againstは 
あまりにも言われるので
編集盤のcdと復刻の1stEPを買ったが
どこが似てるんだろうと
当時は頭を捻った 笑

その位
意識は違う所に在った
やはり
DK’s 
NMN
そして日本のHC
この辺が軸ではなかったかと想う

特に日本のHCでは
音的には
KGS
URBAN TERROR
IDORA
VOLUME DEALEARS
(シシクラさん在籍時)
SATORI SCHOOL
ZOKKI(憎鬼) (←vaの一曲を繰り返し良く聴いた)
は良く聴き込んでいたかな

あくまでもざっとだけど
音的な背景は
こんな感じだった
補足としてね

んで次回こそ
レコーディングの話を書きましょう 笑 rk2

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09/22/2013

私的 wagplaty history4

utのEガヤ兄がdrを手伝ってくれた時期に
それまでの色んな総括がしたかった 
言わばリズム的に広がったので
ぼやけていた部分をハッキリさせたかった
が バンドはバランス
当然別な粗が目立つようにもなる
こうしたらEんじゃないかという
アドバイスは結構無視されたから
前に進めなかった
あの時点でももっと明確に出来たはずだった
が 現実とはこんなもん
あの時期はああでしかなかったのだ

Eガヤ兄の提案で
 俺が居るんだから何かちゃんと動いたり残したりしようぜ
ヘルプのまま音源はどうかとも想う所だが
前回書いた理由で(核心は書いてないが 笑)
gtもdrもヘルプのまま
容にすることを決めた
何しろヘルプの兄貴がやる気でいてくれたから

バンドサウンド的には
やり始めはDK’sやNMNを凄く意識していた
やっていくと共に
当然ああはなれない 笑
バックボーンも人間性も技術も何もかも劣っている
真似じゃ意味が無いし教材のレヴェルが高すぎて不可能だ
では自分等に出来ることは何か?
他人のライヴを死ぬ程観た
三本のライヴを掛け持ちで観に行ったりして
KGSのTT兄には
バンド好き の称号を頂いた(半分皮肉だっただろうけど 笑)
只観てた訳じゃない
自分の中で色々振り分けた
ちょっとした気になった事を自分等は気をつけた
現場を観て感じた事は大きかったし
観ないと判らない事だらけだった
打ち上げにも知り合いも少ない中参加し
色んなバンドマンと話をした
気づく事は多い
そして音楽の情報を交換した
要は何が足りなかったのか
気づく事から始めた
そして自身の事を面白がってくれる
兄さんやバンドマンが増えてくれた

給料の殆どがライヴ、打ち上げ、レコード収集に費やされ
沢山の音源を聴きまくった
日本じゃ手に入らないブツが多くなってきたら
ナメリカまで買いに行った
自分の中で解析を続けていった
どうしたら自分の想うサウンドが出来るのだろう
想った事は実践しようとしたが
メンバが動かない事にはどうにもならない
考えはまとまっていったが
現実はついていかない

だが今の時期に容にするんだと決めた
判らんがやってみないともっと判らないし
Eガヤ兄の言葉もあったから
1stEPは初期の集大成だ
だから今想えば粗だらけだが
ああでしかなかった
自分の意識はもう少し違ったところに在った
揃った素材を一番良く聴かせる為に
自分の引き出しをあけまくった

今の自分より
あの時期はロック的な要素は皆無だった
其れはグルーヴという所まで
バンドが達成していなかったから
だからむしろ排除していった

リフとリフの応酬
四回じゃ、くどくなるリフも
奇数回なら際立つ
無駄な装飾を一切排除して
gtソロもない
音楽理論も無視した
部分転調の嵐
手癖で予定調和を少なくした
感情と言葉とリフと短い間の塊
それしかなかった
ライヴではバンド名すら言わなくなった
出てきて演奏してすぐはける
観てる側も集中出来る時間内で
だからあの時期は語弊を恐れず言えば
ノイズコアのアプローチに近かった
けど それはあくまでも 側 の話であって
曲の構成は考え抜いたし凝りまくった
短い曲の中にも展開はきちんと造った
決して垂れ流しにならない様に

すべてを凝縮した塊にしたかった
そして曲も演奏もあくまでもラフにはせず
出来る限り伝わるように
出来ては無かったとは想うけど 笑

ライヴを重ねリハを重ね
何となくの容が観得てきた
これだったら何とかなるんじゃないか
と想い 収録する曲は自分の中で
必然と決まっていいった

実は1st時に2ndの半分も録った
五曲録ってある
存在、過ぎる、在りき者、手、それ
の五曲
時間的にも五曲のEPでも良かったと想うのだろうが
自身のこだわりで
三曲入りで45rpmのドーナッツ盤
そして折角の1stなのでカラー盤(緑)にした

色んなアイディアを出し
曲頭にインストをつけてみたり
語りを入れてみたり
スタジオに在るものを
即興で入れてみたり
兎に角 出来る限りのことをつぎ込んだ
何故ならレコーディングに凝ったバンドが
本当に少なかった
自身の中でライヴとレコードは違うもの
ライヴは記憶に残るものをとインパクトと生き様重視
レコーディングはその時期の空気感とアイディアの記録だと
今でもそう想っている

素材を出来るだけ揃え
プレス屋も電話で聞いたり
dollの広告で探したりで
結果ジャパンオーヴァーシーズに決めた
代理店なので日本語で事がすんで
金銭的にも範囲内だったから

当時の自主盤は
ライヴ感を出すバンドが多い中
自身は 作品 に、こだわった

そして待ちに待った
レコーディング当日がやってきた rk2

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08/20/2013

私的 wagplaty history3

メンバーチェンジを繰り返しながら
少しでも前に進みたい、進めたい
ヘルプを入れながらの活動は
今、想えば強引だったのだろうが
やって正解だったと自身は想っている
何故なら他のバンドとは
自身の中で一線をかした
人間臭い個性的な音を求めていたから

上手くいかなかった理由は
他のメンバが誰も本当は
そう想っていなかった事
口先で返事をした責任も取らない事
やれないならやれないと言わず
影口しか叩けなかったところ

想いが在るなら言い合えばEのにね
くだらないプライドは成長を邪魔するという
反面教師に見えた
だから上手くいかなかった
勿論自身の落ち度も在る

その中でも必死に動いた
無様だっただろうが必死だった
ここでは書かないが
動かした理由が明白に在った

やっていくうちに
色んなバンドと繋がっていった
特に狂都、滋賀のバンドと繋がった事が
物凄い大きな出来事だった
大阪で無く狂都、滋賀
其処が大事だった

客観的に学ぶべき点が多い
音に対して異常なまでの探究心は
とても共感できた
好きな事をとことん探求する事が
当たり前のバンドマンが多い
自身が当たり前のだと想ってやってきた事に
共感を示してくれるバンドマンが多かった
きっかけは当時ブロウ ワンズ クールのS太郎兄
企画に呼んでくれたのだ
企画はベアーズだったけど
GO、dew under,sk8boredが対バン
BOCはFAに変わる直前で企画だけやってくれた

今の自身の繋がりの発展の根底は狂都からだ
自身のバンドへのこだわりは
間違ってなかったと安心した

質の高い音と
質の高い下世話な笑い
狂都は勝手に自身はホームだと想っている

無理やりにでも
動いて良かった
動かなかったら
こうじゃなかったかもしれない
あの時のタイミングだからだ

固まらないバンドのメンバーとは裏腹に
自身の考えは少しずつ固まっていった

そしてdrが抜け
当時UTの活動が止まりかけていたEガヤさんが
ヘルプでdrを叩いてくれる事に成った

ここから色んな事が始まっていった rk2

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07/03/2013

私的 wagplaty history 2

初スタジオは
とりあえずDK'Sのコピー三曲 笑
勿論 造った曲も持っていったが
一回 有り物で感触を掴もうと想ったからだ
というのもパンク、HCが好きなメンバーだけじゃなかったから
gtとdrはHRが好きな奴等だった

そっから毎週、週二回スタジオ

それでバンド名を考えようと
当時のベースKと自身の家で話をした
Kは魚の図鑑を持ってきて
何やら長い名称の魚の名前を付けようと案を出したが
覚えにくい上、パッとしなかった 笑
地味な小さい黒い魚だったのを覚えている

それで自身がたまたま開いたページに
ワグプラティ
という熱帯魚でメダカの一種の名前を見つけた
別名ムーンフィッシュ
尾の容が三日月の様でそう呼ばれるらしい
ワグもプラティも形容詞で
ワグはひょうきんな
プラティは平べったい
言葉に深い意味が無い所が気に入った
そして他のバンドとは
絶対に名前が被らないだろうという事
ネットも無かった時代で固有名詞だから意味も判り難い所
それが何か自身が目指すバンド像にも近かった
(実際ナメリカでもどういう意味だ?って散々聞かれた 笑)

この時期自身の廻りでは
バンド名に凄い意味付けをしたり
一生背負っていくなんて
息巻いている奴に限って
すぐ解散したり
何か頭でっかちな奴等が多く
自身は正直 続けられたらEなとは想っていても
他に熱中できる何かが出来たら
それをやるだろうし
やりたくなくなったら辞めると想っていたので
物凄く意味の無い名前が付けたかった
その話をKとし
ワグプラティでEんじゃねぇ
って感じでバンド名を決めた覚えがある 
だから熱帯魚好きでもない 笑

七月の中旬には
今は無き原宿ロスアンジェルスでデヴュGIG
たしか六曲位で全部オリジナル
ライブは五分

これはステレオタイプに奇をてらった訳でもなく
見てる側も集中できる時間て
十五分位が限度だろうという自身の考えと
五分なら見るんじゃねぇかなってのと
この時期三十分位
同じパターンの曲を
延々とだらだらやるバンドが多かったから
短い曲の中でも展開を増やして
真っ当なインパクトが残したいという
そういう考えからそうやっていた

頭でバンド名だけ言って
MCも一切無し
曲も曲間も出来るだけ詰めて
五分でいかに倒れるまでテンションが上げられるか
って所が自身の勝負所だった
その考えの軸は今も基本はそんなに変わっていない

それで初期のライヴでは
決まっていたら次のライヴと
そこに曲の歌詞を載せて配っていた

写真は残ってるのだけど
(マイスペに以前あげてたが
今はマイスペ自体が何故か見れない 笑)
ライン録りのテープは残っていなかった
確かバタついて録り忘れた筈 
二回目のライヴテープが残ってるが
聴くに耐えない 笑

音的には ここから
1stシングルを出すまで
かなりの試行錯誤が続く
それは廻りに好きなかっちょEバンドは居たが
近いお手本は無いから
ずっと手探りの状態だった

今でもそうだが
撮れるなら必ずライヴの映像は撮っている
撮れなければ
ライン録りだけでも録っている
前のライヴが次のライヴの
手本になるからだ

そして
一回目のライヴでリズム隊二人が抜ける
それで逆にバンド名は変えなくてEやって想い
バンド名はそのまま今に至る

その後baに同窓生のにT
drはメン募で知り合ったTという女dr
スタジオに入る内に
gtのOも辞め
ライヴを二、三回位(?)でdr、Tも辞めた

そっからずっとメンバー募集の日々が続く
世間はオルタナ、グランジブーム
自身がやろうとしている事とは非なるもの
お洒落さの欠片も無い剥き身のバンド
メンバーの誰もジャンクと呼ばれる音楽は聴いてないのに
下手だったからだと想うが
ジャンクと言われる事が多かった 
本末転倒である 笑

バンドブームが去った後だから
ライヴハウスも次第と閑散としてくる
ブームは関係ないと想っていたが
余波は意外と在ったのだと
想った記憶が在る

しかし板の上に乗っているバンドは
魅力的なバンドも居て
色んなバンドと繋がっていく

度重なるメンバーチェンジと募集
人間が良く見える
自分から電話してきて
平気で待ち合わせをすっぽかす奴
でかい事ばかり言って
何も練習もしない奴
でかい事ばかり言うから
言った事をやらせてみると
結果何も出来ない奴
皆 口ばかりだった
そして影口ばかり叩かれる
時には何もしていないのに
やってもいない事を
吹いてまわられた
単に足を引っ張る為だけに

皆 言葉に行動に責任が無い
そして自身に人間を見る目も無かったのだろう

そうこうしている内に
メン募で来たgtにY
drに現DIGZIGのdrをやってる女dr、Sが入り
ライヴを少しずつ増やしていった

一瞬のヘルプなんかも入れたら
多分 UK SUBS並みに
元メンバーは沢山居るじゃないかね
まぁ そんなEもんじゃないけどね
当然 うちらは 笑

だから未だにバンド名を変えるつもりも無い
元より意地で中途半端でもバンドを動かしてきたから
今からバンド名を変える方がよっぽど中途半端だ
と個人的に想うからだ
元よりバンドのベクトルが他とは違ったとこから始まっているから
そういう事を考える順番も違ってくるのは当然だと想っている

最初からメンバーが流動的で
メンバーが変わる度に音の変化も必然だと想ってきた
そしてそう実践してきた自負も在る
それに対応出来る様な
音のバックボーンも身に着けてきながらやってきたとも想っている
色んなイレギュラーや
やってきたから判った事なんてのが
非常に大事な事だった
元来 廻りのバンドとは
成り立ちも意識も違う所が多いのだ
そんなバンドが一つ位居てもEじゃない 笑

だけど動かしてきた分
小さいながらも結果もでる
それが意識も状況も変えてきた
苦肉の策では在ったが
自身の持っているイメージは
どうやら一般的ではなかったのだろうから
今想えばこの状況は
必然であったのだろう rk2

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07/01/2013

私的 wagplaty history 1

このブログを立ち上げた時から
三つのやりたい事ががあったが
手間がかかるのと時期と気分と体調によるので 笑
中々手をつけられなかった

その内の一つが
このバンドの自身の私的ヒストリー

カテゴリーもwagplaty historyで
後々まとめて読める様にしました
まぁ日記も平行して書いていくので
どっちも気が向いた時の更新になる予定

あくまでも私的で文責は自身に在ります
記憶違い
解釈違い等は
コメントか自身にメールでも下さい

では第一回を始めてみましょう

序章

1991年
自身は音楽、出版全般の専門学校の音響系の学科に通っていた
山形では約三年バンドをやり
その時はdr
全然 上達しないdr
音は当時Oiやオリジナルパンクや日本のパンク、HCが好きだった
が 全く消化し切れておらず
中途半端なビートパンクといった所だろうか
そのまま1990年にTKYに来て
そこでもそこの同級生や山形から出てきた奴と
バンドを組むが
やはり何か消化しきれず
もやもやしたままdrも全く上達せず
二年で解散

TKYに来て
山形と仙台で買っていた音源の量とは
完全に情報量違い

自身は田舎の山形で民放二局で育ったにもかかわらず
TVは二年間で多分一時間も見ていない
バイトの給料が入ったら
殆どレコード屋か貸しレコード屋
知り合った友人からは
興味のある音源は
片っ端から借りてダビング
その位、音源漁り三昧

特にアメリカのHCの音源など
田舎には中々無い
一気に入ってきた情報量と
やっている事が比例しない苛立ちが
ずっと、つのっていった

田舎育ちだから
手に入る音源は片っ端から聴いた
今想うと恥ずかしいバンドも好きだったし
観に行ったりもした

でも一番最初に観に行ったHCバンドは
ACIDだったりして良かったと想う 
後にクロさんと遊んだりしてたのを
この時期の俺に伝えたい 笑
確かベスト ラン ファースト 下北屋根裏
同級生でメンバーだったヤマちゃんと観に行った

そして他の同級生には(厳密に言えばA、Bクラスに分かれてたが)
まだアーバンテラーに入る前の
キムちゃんが居た

因みに同窓生では
GOでgtだったNも居たりするし
今はDJ TAKAの名で
パンクDJをやっているY君も居た

同級生でも同窓生でもないのに
ハザード ゴチョウとも
この頃に知り合う 
しかも とあるイレギュラーで
道端で 笑

そうこうしている内に
TKYで組んだバンドも解散し
バンドに未練があったりしたが
卒業も間近になり
バンドを諦め
裏方でHCやパンク専門の
レコーディングエンジニアになろうと決め
とりあえずプロのスタジオエンジニアの道へ

キムちゃんがUTに加入しライヴをやっているのを
追っかけつつ
KGS、イドラ、ランニング チキンズ、スラムパイレーツ等
もその頃に観て衝撃を受ける

結果 右脳で考え感覚重視の自身は
機械が巧く理解できず(この辺は今と変わらず 笑)
直属の上司からの執拗なまでの低レベルなイジメで
エンジニアへの道は研修期間込みで約一年で挫折

今想えば、この職場も
考えようによっちゃあ
自身にとって興味深い人達も
出入りしていて
もっと話を聴いとけば良かったと想っている
(松武さんやYMO関連のスタジオミュージシャン、
ドッキリレコードの頃のINUのエンジニア、横浜銀蠅のアシスタント等)

そして某有名ミュージシャンの仕事も多く
何故か気に入ってもらえたりした 笑

そして後で発覚するのが
この自身を嫌っていた直属の上司は
元UTのEガヤさんの同級生だった 笑
(何故 イジメられたかも話聞いて大体判った)

仕事を辞めた日に
事務所を出て
西新宿に向かい
一日五千円という
安い給料なのに
使う時間も無かった為
(朝の十一時から早くて終電近く、
半分位は始発、大詰めだと次の日の夕方帰宅
なんてザラだった)
多少金は有り
(一日で使う金は夕飯のサンドイッチと
帰ってから家で食うレトルト食品代位)
三万円分のレコードを
取り付かれた様に買い漁って帰った

家で戦利品を聴きまくり
就寝後
スタジオの別の上司二人が
夜中に電話をくれ
自身のやってきた事を理解していてくれて
引き止めてくれたが
レコードを買っている時には
新しい自身の想うバンドを組もう
という欲求が湧き上がりすぎて
有り難かったが
丁寧にお断りした

DK'Sの様に
インパクトのあるパフォーマンスと深い音楽性
NO MEANS NOの様な
深過ぎる音楽性に変拍子を多用しつつも
パンク、HC感が失われない感じで
全部 日本語で独自の解釈でやれないだろうか?

そうは想っていても
結果そんなに洗練された容ではなかったけど 笑
そういうイメージで
まだ名も無かった
このバンドはスタートしようとしていた

メンバーをどうしよう
仕事は1992年3月31日で辞め
次の日のエイプリルフールに
専門学校の同級生、同窓生に電話をしまくり
四月二日には
メンバーはとりあえず揃った
gtはO
drはFさん
baはK

自身はdrではなく
日本語の言葉の面白い感じを
唄える唄い手が居なかったから
唄ってみる事にした

そして次の月の中旬には
まだ名も無い其のバンドは
とりあえず
初スタジオに入っていた rk2

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